○ 羅津要塞司令部入隊応召兵の手記から

私は、清津の公立商業学校教師だったが、昭和二十年三月初旬、現地召集になり、羅津要塞司令部に入隊した。

入隊後の主な仕事は、トーチカ陣地の構築だった。山に大きな穴を掘るので、ツルハシを振るい、モッコを担い、毎日が重労働だったので、以来、今日まで肩の筋肉をつかむと痛いのはその名残である。

 

八月八日、ソ連機が羅津港の船に爆撃を加えた事で、かねて恐れていたソ連の参戦が決定的になった。

敵が必ず攻めてくるので、翌朝穴を出て野山を移動中に空襲され、身を隠すのに必死だった。

司令官は少将から中将に代わり「抵抗せず、南下を決断」。羅津を去り行進を開始した。途中、軍や警察に置き去りにされた避難民の群れに出会った。

今なお、私の胸に焼き付いているのは「乳児を背負い、二人の幼児を励まし、腰の曲がって杖を頼りの老婆を連れた、若い婦人一家」の姿である。これらの何人かは、おそらく北朝鮮の土と化したであろう。途中の川原や山陰の広場に休んでいる幾十組組の家族もみかけた。

部隊の南への逃亡は、各自ばらばらに、先行組みを見失わぬような間隔を保って歩いた.一週間後の十五日ごろ、主に日本人が住んでいた工場町「茂山」に入った。日本人は皆引揚げて、家財道具は住宅の中にそのまま残っていた。

十八日、山間の小駅で司令官が、あの、天皇の「詔勅」を読み上げた。私は内心「これで肉親に会える、死なずにすんだ」との喜びが沸いたのであった。

そして二十三日、部隊は武装解除し、ソ連軍の捕虜となった。

(この手記は 福岡精道著 「清水の舞台から」 かもがわ出版 引用)

 

©2004 Kaneo Kikuchi

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