○ 緊急避難命令

羅津要塞司令部の特使は、全市民に「緊急避難をせよ」と言ってきた。警防団長、憲兵隊長、軍留守隊長、郡守、巴長、警察署長などが協議を重ねた結果、全市民を鉄柱洞から鹿野へ避難させることに決定した。

十日未明急遽、黙々と市民は大移動をはじめた。携行品は一〜二日分の食料と二〜三の食器。着衣はふだん着のままが大半だった。

やがて市内の各所に火災が発生。またたくまに全市が火の海と化してしまった。それでも市民たちは、やがて日本軍が救援にくると固く信じていたのだった・・・・・・

消防司令(吉田伊蔵)は強い責任感から二〜三の市民と市内の巡回や警察との連絡に当たっていたが、十一日夕方、二隻の小型軍艦の入港を遠望「日本の軍艦がきた」と、こおどりして海岸へ走った。ところがぞろぞろ岸壁に上がってくるのはソ連軍で、出迎えた朝鮮人たちと、「にこやかに握手して勝利を喜び合っている」様子だった。

翌十二日になると、張鼓峰方面を突破したソ連軍戦車が次から次へと市中に侵入。死の街となった雄基全市は、完全にソ連軍の掌中に陥った。

 

©2004 Kaneo Kikuchi

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