○ 「茂山」を目ざす避難民の群れ

雄基、羅津、清津は、北鮮の代表的な良港で、相互の距離も近く、それぞれが同じような運命をたどりつつ、いずれ日本軍の反撃で各自わが家へふたたび戻れるものと思い込んでいたのであった。

しかし、避難先の町々は皆ソ連機の空爆で火の海と化し、残っているのは茂山だけで、ここには咸鏡北道庁の幹部が疎開し、道の防衛本部があった。

雄基、羅津、清津、阿吾地、会寧、冨寧など北鮮最北の町々から、茂山をめざす避難民の群れが、野に山に延々とつづくのであった。

十二日未明に雄基を出たわれわれが、会寧を経て茂山に着くまでに九日間を費やしたのである。このため老人、女、子供たちは息もたえだえに重い足を引きずって歩かなくてはならなかった。

 

やっと、ソ連機の襲撃を逃れてホッと息つく間もなく、携行した食糧はとっくに食べつくしたので、はげしい飢えと、のどの渇きにあえぎだした。水で、のどをうるおしても、胃の腑を充たす食べ物がないので、枝豆、トウキビをみつけると、もぎとって皆で分け合い、いわば一粒の豆に命をつないだのである。

しかし、はるばるたどりついた茂山も、身をかくす場所ではなかった。ここに、各地から集まった避難民数は、約三万人だったが、次第にソ連軍が茂山に迫ってくるので、またどこかへ移動しなければならなかった。

そこで、次は延社がえらばれた。しかし、この避難民が移動を終えない先に、ソ連軍の先遣隊がトラックで避難民を追い抜いて延社にはいってしまったのである。

 

©2004 Kaneo Kikuchi

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