雄基帰還組の一部は、山林鉄道で茂山に下車すると、ソ連人と朝鮮人から、時計・指輪はもちろん、身につけためぼしいものを略奪されてしまった。
八月三十日、茂山から清津に着くと、ソ連軍から「十八〜四十五歳の男を出せ」と意外な要求があり、後に残った老人と女子供たちだけに通行証明書を発行「雄基へ行って生業につけ」と指示。肉親を拉致された切々たる悲しみも、雄基で待てば、また会う日もあると、互いに励まし合いながら、六百三十人ほどの群れが、北へ北へと歩きだした。
「また、歩くのか」と、泣きじゃくる子供をなだめ、一ヵ月近い逃避行の疲労と、ろくに食事もとらないための栄養失調から、途中でむなしく異境に屍をさらすものが次第に増えた。人々は素手で土まんじゅうを作り、名もない草花を供え、追われるように歩いた。
途中でソ連軍に連行される日本軍将兵の一行ともすれ違って、目と目で別離を交わし、「この捕虜たちはどうなるのだろうか」と後ろ姿を見送ったのであった。
©2004 Kaneo Kikuchi