さて、この老幼婦女避難民に対し、雄基で待っていたものは、一椀のカユでも、一杯のお茶でもなかった。九月九日午後、やっと戻った雄基の街は、一面の焼け野原で、焼け残った品物は、すべて略奪され無惨な有り様だった。
一行は一夜、旧都旅館に仮寝して、翌日から白鶴洞の砲厰に押し込まれ「生業につく」どころか、百メートル以上の移動を禁じられ、何一つ食物を与えず。皆、地べたの草でも見つければ口へ入れた。世界、どこの国の監獄でも食事なしの監禁は聞かない・・・・・ということは「われわれを殺す考えに違えない」と、不安感がつのった・・・・・・
やがて六名の委員が選ばれ、ロシア語のうまいT氏の通訳でソ連軍と交渉しても、いつも煮え切らぬ返答ばかりだった。
病人の衰弱。一滴の乳もでない母親の乳房にすがり、かぼそい泣き声が止んだら亡くなる赤子・・・・・・絶望の断崖にたたされた二十日後、さすがソ連軍も見かねたのか、一同を満鉄の社宅へ移した。六畳に十人くらいの割当で、何とか足腰をのばすことができた。
ところが、飢えよりも悲しい、卑劣なソ連兵の魔の手が、夜毎婦人たちを襲い、一同は全身の血を逆流させて怒りに燃えても、年寄りと子供では腕をふるうすべもなく、弱みにつけいるソ連兵の残忍さに、わが力のおよばぬくやしさを皆いくたびか相擁して悲憤の涙にくれるばかりだった・・・・・・
©2004 Kaneo Kikuchi