○ ひそかに脱出画策

母国から救援の手がのびないのであれば、自分たちから脱出する手段を模索しょうと、有志で内密に協議することになった。

それには、各地残留の日本人グループとも接触して、脱出策を研究して、その準備をすすめる必要があった。

そこで、ソ連軍から代表二人の咸鏡北道内の旅行許可うけ。まず清津に行ったところ日本人は既に引き揚げていたので、次に城津に廻った。幸い此処には高周波工業の人びとが居残っていて、私たちを心からねぎらってくれた。

そこへ首尾よく咸興からM氏も来あわせ、いろいろ周辺の様子を尋ねてみたところ、羅津、阿吾地にも、まだ若干の日本人が残留しているが、どこの日本人も惨憺たる境遇下にあることが分かった。

それでこの人達とも共に脱出する決心をして、帆船五隻を雄基に、二隻を羅津に配船する手配をすることになった。

船賃三十五万円余りの調達は容易でなかったが、帰国のためにはと、元気百倍して皆、夢中で働きだした。

雄基の日本人は百余人の死者を出し、その後、西水羅と古乾原などから身を寄せた組もあり、合計五百六十五名に達し、その全員が脱出しようというのである。

 

©2004 Kaneo Kikuchi

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