○ 雄基脱出―波乱の三十八度線突破

十月まもなく、M氏らの一行が雄基を訪問。ソ連軍に「江原道の襄陽へ移住方要請」してくれたので、十五日夜半から十八日にかけて、逐次船に乗って脱出したのであった。

暁闇の海上から、雄基のあたりを遠望。皆、万感胸に迫るものがあった。しかし、平穏な船旅ではなかった。

二日後に、船員たちの居住地、泗浦に寄港すると「船頭が抑留」され、一同、肝を冷やした。理由は「選挙前にヤミ船かせぎは、けしからん」と、船頭が追求され、「選挙前に必ず戻る」と約束。保証金五十円で出帆が許可され、胸を撫でおろした。

ところが翌日は大暴風になり、船は木の葉のように波にほんろうされ、帆が裂けて、前進ができなくなったので、新浦の島陰で帆の修理をしょうとしたら、ここの海上保安隊に船頭と日本人代表者が留置され、いろいろ追求されたので、「南下の特別許可をうけた」と答えたら、「その許可証を出せ」と迫り、許可証が無いとみると「全員下船して、元の居住地に陸路歩いて帰れ」と厳命。「全員が病人で動けない」と二日間拒みつづけたら「そのまま雄基へ帰れ」と三千円渡して、なんとか許された。

しかし、やっとのことで此処まで来て再度雄基に戻るなら、もはや「生きて祖国の土を踏む日はない」であろうと、一同は心のうちを船頭に訴え、へさきを南に向けてもらった。

用意した一週間の水と食糧は三日前になくなり、空腹の苦しさも、船の針路をみて霧散し、一刻も早く北緯三十八度線越えを「まだか・・・まだか」と、地形確認のため岸に寄ったら、保安隊員に怪しまれて機銃掃射され、船員二人が重軽傷を負った・・・・・・

波浪で船が、陸岸三十メートルに圧流されたため、さらに保安隊の疑念がたかまり、射撃が一層はげしくなったが。、全員が船底にへばりつき。責任者三人が、がむしゃらに帆をゆさぶり、舵を動かしたら、船は次第に沖合に走りだした。まさに天佑で、保安隊の射撃もついに止んだ。

「助かったー助かった」と相抱いて喜びをわかつ合った・・・・・・・

おりから、中天の月が、みがきすましたように輝きわたり、一人が天を仰ぎ、謡曲「船弁慶」を朗々とうたいだしたのであった。

かくして、十一月二日、三十八度線を突破して注文津に入港し、半月間の苦闘の幕を閉じた。

ただちに、当地の米軍から温かいスープが全員に配られ。病人はすぐ病院に収容されたのであった。

 

それから一週間後・・・はるか海上から日本の引揚船が、船尾に「日の丸の国旗」をはためかして入港してきた。・・・みな、我を忘れ・・・涙にむせぶばかりだった。

 

©2004 Kaneo Kikuchi

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