3 日本郵船 枝光丸 戦標船  2A型

羅津港は日本から到着した工場疎開の輸送船や、あるいは本土から退避してきた輸送船で混雑し、枝光丸はすぐには入港できず、七月二十六日いったん雄基に回航して錨泊した。便乗者はここで下ろしたが、設備の悪い同港での重量物の陸揚げは困難なためここで待機して八月一日羅津港第三埠頭十三号岸壁に係留した。ソ連の参戦は八月九日払暁から来襲。敵機がソ連機であることを確認したのは正午近くになってからである。空襲は二〜三時間間隔で終日続き乗組員三名の負傷者が出た。夕方になって港内の船舶で運航可能なものは軍の指令によって出港、退避したが、枝光丸は機関が故障しており動きがとれなかった。

爆撃は夜も続けられ、乗組員は夕食後から交代で付近の防空壕に退避し、暗然とした気持ちで戦争の行く先を考えた。

翌十日午前七時ごろ、前日にも増してソ連機が大挙来襲し、七時半には激しい機銃掃射と共に、爆弾は枝光丸の中央部、前後部甲板に同時に命中した。船体は大破し、三等航海士ら船員三名と警戒隊長は無残な死体と変わった。

その時に現場に居合わせた菊地操舵手の証言「ソ連機による波状攻撃は苛烈を極め、その機銃掃射の音はドラム缶の中にいて外からたたかれるように激しく響いた。空襲の合間をみて船橋に行って見ると、船長は重傷をうけて、その場に倒れていた。皆で抱くようにして岸壁に移し、防空壕に入れようとすると、中から「ここは陸軍の防空壕だから入ってはならないと言われた」しかし、直ぐ前に爆弾を積んだ貨車が五〜六輌も放置されてあり、いつ爆発するかも知れないので強引に船長をその中に担ぎこんだが、残念ながらまもなく船長は息を引き取った。

午前八時、横手一等航海士が船長に代わって総員の退船を命じた。乗組員は戦死者、戦傷者を収容して陸上に退避し、防空壕の中で負傷者の手当てなどしているうちに、暁部隊からの命令を受けた。「ソ連軍が進撃してくるので、船を離れ急遽徒歩で清津まで南下せよ」と、いうのである。

遭難前に発病し、宿舎から通院中であった山内機関員を残したまま、乗組員六十八人は警戒隊員とともに、正午に羅津を離れ清津に向かった。・・・・・以下省略

(以上三隻は 日本郵船戦時船舶史から引用)

 

©2004 Kaneo Kikuchi

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