6 大阪商船 保津川丸 戦標船 2ED型 (八七五総トン)

八月九日、羅津港在泊中の〇一三〇頃より空爆をうけ、船体損傷のため転錨したが、その後二一〇〇に左舷中央部に被弾、破孔が生じた。更に、船首右舷側に不発弾二発を受け漏孔が発生した。 

また、十日〇四三〇に再度空爆をうけたため、一二三〇元山向け羅津を脱出した。すると同日一六二〇頃、前方二キロに潜望鏡を発見したので、兵装のない本船は急ぎ、雙浦湾に退避し、漏水防止と船体の修理に当たった。

十一日二〇一〇出港したが、二一二〇頃になって、後方一・五キロに、浮上した敵の潜水艦を発見。二四〇〇頃に、後方四十度二キロと、一八〇度一・六キロ、さらに左舷前方二十度二キロに潜水艦を視認。つまり三隻の潜水艦に包囲されてしまったので、警戒しながら航行中の十二日〇一二〇頃、後方七十度二キロ付近から
雷撃されたが回避。この時点で重要書類は重錘をつけて沈下せしめ、〇一五〇接岸航行に移った。

敵潜の追跡は執拗で、本船の南下を阻止する状況が窺われ、加えて本船の浸水が甚だしくなったため遂に意を決し、〇一三〇頃 N四一ー二八 E一二九ー四〇(接王堂沖五百米)に擱挫し、船体を放棄した。なお、当時の積荷は黒鉛八百トンであった。

(この項「戦時船舶史」から引用)

 

©2004 Kaneo Kikuchi

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