7 帝国船舶所属 帝北丸 (5794総トン)

戦没地点 八月十一日 朝鮮江陵東沖で雷撃をうけ轟沈 戦死者二十八名

元フランス国籍 Persee(ペルセー)貨物船
 一九三五年建造 五七九四総トン
 三井船舶運航

帝北丸に関し昨年当サイト「硝煙の海」に同船乗組員の一遺族から突然問い合わせがあり、当サイトには下記の那和少尉の簡単な手記のみのため(財)日本殉職船員顕彰会を紹介した経緯があった。その後独自で同船関係の記録を追跡したところ、以下の資料を入手したので、当サイトに追加掲載します。

向日丸陸軍連絡将校 那和少尉の手記から

当時、羅津港には20隻ほどの商船が居たが、帝北丸以外の船名は不詳。該船には同期の若松少尉が乗っていたので七日訪船して会った。この船は元フランス国籍で時速二十二〜二十三ノットと聞く。同船は九日夜、羅津から舞鶴へ直行中、日本海の中部で敵潜水艦に撃沈され、若松少尉は幸い通りかかった漁船に救助されている。

同船乗組員 森清操舵手の証言から

多数の在港商船隊が被弾〜擱座して水路がふさがれている惨状下の9日夜間、緊急出港命令が出た。しかしソ連爆撃機、雷撃機編隊の波状攻撃が続行中であったので離岸に難儀し、やっと港外に出ることができた。振り向くと羅津港一帯は黒煙と火柱が空高く吹き上がっていて、後続の脱出船の姿は無かった。

突然の出港で燃料に不安があったため、単独で舞鶴に直行することになった。 10日朝、一機の友軍機が本船の上空で翼を振って飛び去った。11日午前零時半過ぎ同操舵手は当直を交代し、ブリッチの右舷で海面を見張っていたところ、突然大きな衝撃があった・・・同人が気づいたとき、ただ一人海の中にいた。付近海面一帯は油と浮遊物が散乱・・・頭や目が痛く、手で触るとべったり血がつき、救命具の紐が首をしめつけて痛く、このときの太陽は真上だった。

波浪の谷間に入ると そのまま海中に吸い込まれそうで、底知れぬ恐怖感が迫り、波の上にでると一面が油膜と浮遊物だらけだった。

突然!救命ボート出現

時間の経過も定かでなく、度々大声で仲間に呼びかけても返答は得られなかった・・・ところが突然、夢のように帝北丸の救命ボート1隻と竹製の筏三艘が目の前に出現、仲間の呼び声と顔ぶれを確認することができた。

あとで確かめると10時間以上も一人で海中を漂流していたことになり、帝北丸は二回爆発後に沈没。乗組員の約半数の60人が辛うじて海上へ脱出したとのことであった。

12日、栗の実ぐらいの軍用乾パン一個だけ配分、飲料水ゼロ。13日救命ボートと筏が分離し、双方すぐみえなくなった。森清の筏には、負傷者ばかり約20名だった。

米軍潜水艦に救出される

このあたりから日にちが分からなくなった・・・仲間の顔が黒ずみ、衰弱し・・・内、何人かは筏から海に飛び込んだ・・・誰かが異様な声を出し・・・棒だー 棒だー と叫び・・・潜望鏡が見えて・・・米軍の潜水艦が出現・・・米兵が銃を構え・・・ロープを投げて 筏はデッキに引揚げられ・・・ウオーター ケーキにありついた。森清たちは全く知らなかったのは当然なのだが、すでに戦争は終わっていたのだった。

やがてこの潜水艦は浮上したまま夜間航海のうえ、竹島近海の欝陵島沖合で筏を解放してくれた。幸い11人が島民に保護され、内1名がこの島で衰弱死した。

島民から終戦を聞いたのは体調回復後の8月末で、米潜に救助されたのは8月21日だったので11日間も漂流していたことになる。

命の恩人潜水艦を探し当てる

事後談として・・・この命の恩人である潜水艦を追跡して31年目に探し当て 艦名スティックバック艦長ハーレー・K・ノーマン中佐と判明。島民が筏を救出したのを確認してから現場を立ち去ったことも知らされたという。

参考文献 土井全二郎著 ダンピールの海
      菊池金雄著 硝煙の海

写真提供 hokura氏(海洋博物館ボランティア

追記
 左記Webによれば、帝北丸を撃沈した米潜水艦はジャラオJallao.で昭和二十年七月三十一日グアム出港後第四次戦闘哨戒に従事中、八月十一日朝鮮半島東方の日本海(38゚03'N/131゚13'E)で貨客船帝北丸(5795T)を撃沈。九月二十八日サン・フランシスコ(カリフォルニア)入港とのことである。

The Encyclopedia of World ,Modern Warships.
http://hush.gooside.com/Text/2S/22Shi/S225kShiyara_.html#anchor556974

©2008 Kaneo Kikuchi

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