敵はソ連機

四度目の空襲は十五時で、羅津の上空には敵機の編隊が殺到した・・・敵機のマークを観察したところ意外にもソ連機編隊ではないか? かつて私が三軍司令部勤務中に写真で見覚えのある濃緑の機体と、ズングリとした胴体がE16と、SB軽爆の戦爆連合約二十機であった。
 この時、昨夜来の空襲はソ連機であると伝えられ・・・九日午前零時、ソ連が日本に対し宣戦布告されたことを確認するとともに、極めて深刻な事態となった。
 虻のように胴体が太く、翼の短いずんぐりしたE16戦闘機の胴体から、容赦なく機銃弾が在港船にばらまかれた。埠頭は再び戦闘の修羅場と化し、無人の境を行く如く敵編隊が跳梁。期待される日本所在部隊の防空火器は全く沈黙・・・しかし私は一途に友軍の反撃を期待し“必ず反撃する。わが陸軍は劣勢ではない”と信じながらも・・・ソ連機に反撃する一機の友軍機も、防空部隊もなかった。
 従来、B29に対しては山上の高射砲部隊が、網に補足するような弾幕を打ち上げ、羅津市民を喜ばせていたが、これら低空の小型機に対しては何らなす術もない有様は歯がゆかった。
 敵機は縦横無尽に約一時間攻撃して北方に遁走・・・街は再び平静に戻った。思うに、敵は概ね六時間ごとに来襲するようであった。
 私たちはその合間に旅館に帰った。圃田曹長も合流・・・“今夜もまだ空襲は続くだらうから羅津を離れよう”と、夕食を早めに済ませ旅館を出た。
 一行六名は街の西方の丘を越え・・・一本道を約五キロ歩行・・・傍らの畑に野宿・・・羅津上空にはまたまた敵機来襲・・・爆音と爆弾の炸裂音が遠雷のように聞こえてきた。時刻は夕暮近い十九時過ぎ・・・
“これで今朝以来、五度目の空襲だな”と、私は一人考えたり・・・やがて寝苦しい野辺の一夜を過ごした。

八月十日 羅津脱出

午前七時・・・羅津方向から敵編隊の空爆の炸裂音が聞こえてきた。我々は草原を縫うように体を隠しながら旅館への道を急いだ。約一時間後、羅津の街を見下ろす高台に達した頃には敵機は退散していた。そして共同防空壕に着くと、一昨日原隊へ帰った竹井曹長も合流。全員が旅館で朝食してから共同防空壕に退避し、今後の行動を協議。昨夜まで満員のこの壕には市民の姿は無かった。
 竹井曹長から“ソ連軍は満州の全面から国境戦を突破、侵入しているらしい”との、原隊からの情報が伝えられた。また“ソ連軍の羅津上陸は時間の問題であり、ここに長居は危険である”との意見を述べ、羅津から早期脱出を主張した。
 埠頭を見下ろすと、昨日まで二十数隻残存の船舶は昨夜脱出したのか・・・動けない二〜三隻の小船と、伝馬船数隻が望見されるだけで、我々は羅津から船便による帰国は絶望と判断されたので、先任の圃田曹長も羅津脱出を決定。鉄道輸送も完全に麻痺し、歩くしかなかった。
 再度旅館へ引き返したところ「軍より避難命令が出て、市民は既に避難したが、私たちは最後までここに残りますので、兵隊さんたちは一刻も早く避難してください」と、
軍命令を伝えてくれた。
 事態の急速な悪化に、我々は旅館への支払いを済ませ、羅津脱出を決意。先ず羅津駅に預けてある手荷物の中から、必要最小限の品を雑袋に入れるのが精一杯で、清津まで百六キロの強行軍を開始したのであった。

海・陸交通網途絶〜清津向け行軍〜味方防空部隊撤退開始

いつ来襲するか分からない敵機を避けるため山道コースを選び、駅の裏山は標高五〜六百メートル程で、その稜線は羅津市街を包むように東西にのび、防衛部隊の探照灯や高射砲陣地があったが、撤退作業の真っ最中で、既に一部は下山していた。
 この高台から羅津市街を見下ろすと、北鮮随一の天然の良港は静まりかえって僅かに
埠頭倉庫が余燼を残すのみで、凄まじかった昨日の空襲は嘘のようで・・・正に羅津は死の街となった感じだった。

避難市民長蛇の列

あちこちの山道や谷間には避難する市民が蜿蜒と長蛇の列をなし、長く住み慣れた家を捨てて、着の身着のまま、憔悴しきった表情で、ひたすら南を目指していた。
  一里ほど歩いたら足に肉刺がでたり、咽喉が渇き、暫時道端に腰を下ろし、昼食代わりに乾パンを一人当たり数個づつ食べた。
 ふと湾内に目をやると、沖合いに向かっていた小船が触雷のためか、物凄い水柱に包まれ、瞬時に轟沈する悲惨な最期を目撃した。

敵機避難部隊追撃

小休止の後、また清津への道を急いでいたら、羅津方向から約数十機編隊の爆音が迫ってきた。我々は既に羅津南方の山を越えていたが、その山の上空には乱舞する敵機が目撃され、撤退準備中のわが防空部隊に殺到した。
 我々は素早く松林に身を隠したが、遥か後方を陸続と避難中の群れは、その巻き添えをくったようであった。
 俊敏な敵戦闘機群の一部は、低空で我々の頭上を幾回となく通過・・・撤退する防空部隊への攻撃を繰り返したが、わが防空部隊には最早応戦能力はなく敵の好餌となった。
 我々は全く生きた心地のない緊張の長い時間であったが、防空部隊や避難民にはかなりの被害がでたことであろう。
 敵の攻撃数十分・・・上空に敵の機影がないことを確認。我々は松林を脱出、清津への街道を行軍に移った。その路上には敵機から被弾したトラックが炎上し、やがて避難する邦人の群れが延々と続く・・・一体何処に隠れ・・・何処から出てきたのであろうか?
 制空権を完全に握った敵は、更に陸上兵力を投入・・・“いつ我々の前方に上陸し、退路を遮断する”やも知れず、しゃにむに苦痛な行軍を余儀なくした。
 やがて日は暮れなんとし、避難邦人の群れは相変わらず続いていた・・・我々は疲労困憊のため小休止後、日は既に暮れたが行軍を再開した・・・突如、前方で“ダダダダダダッ”と、数十発の軽機関銃らしい銃声がした・・・我々はサット道の両側に散開、身を伏せ・・・固唾を呑んで注視・・・数分過ぎても何らの異変も起こらなかった。

©2006 Kaneo Kikuchi

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