再度、行軍再開。深夜から小粒の雨交じりの濃霧となった。一行の疲労も極限となり、
暫時、野宿に一決・・・寒さに耐えながら不安な数時間仮眠後、行軍再開・・・時計は二十三時を指していた。
昼間、道を埋めていた避難民の列は何時の間にかなくなっていた。暫く歩いたら格好の民家があったので立ち寄って、一夜の宿を乞うと、中から“ここは空家で、我々も仮眠中なので、どーぞ”と、避難グループの男性から応対があり、我々はやっと野宿でなく屋内で横臥することができた。時刻は午前零時一寸過ぎだった。
不安の内にも安眠、目覚めたのは午前五時。家の中に満員の避難民はまだ起きる気配はなく、我々のみ服装を整えてこの家を後にした。
一時間ばかり歩いたら数戸の鮮人部落があり、圃田曹長がその一戸に、我々が携行していた白米を炊飯方要請の結果、鮮人の奥さんが快諾。やがてご飯ができあがり、食器に一汁、一飯が配られたが、私は全く食欲がなく、かねて左眼が眼病のため眼帯していたが、目薬もなく、目ヤニがたまり悪化するばりでもあった。このため疲労が重なっていたので、暫時その場で横臥の形で休息・・・同僚のうまそうに食べる様を聞きながら仮眠・・・仲間の食事が終わった頃起き上がり、ご飯を口にしたが飲み込めず。味噌汁を試飲してみたら五臓六腑にしみわたるような旨い味だった。ご飯は丸めて雑嚢に入れ、中食用に確保した。
数十分の食事タイム後出発、時刻は九時頃となり路上は、どこから出てきたのか三々五々避難民の姿が見られ、何れも、私以上に憔悴しているようであった。
その中に、足や手に包帯を巻き、見るからに痛々しい船員の一団があった・・・何故トラック等に乗せてもらわないのですか? と聞くと・・・今、そこまで乗せてもらったのですが・・・坂道のため下ろされたのです、と答えたが、この船員たちは、羅津港に停泊中、ソ連機の攻撃のため負傷したものである。
また、羅津港沖の小島の、灯台守家族(奥さんと母親)も軍の避難命令で混じっていた。夫は灯台守として最後まで頑張ると言って、残留したとのことであった。
これら邦人の悲惨な姿は見るに忍びなく、今まで何台かの軍用トラックが兵隊を満載して通り過ぎた・・・中には空車状態のものもあり、せめて負傷者や老幼男女を便乗させる親切心の欠如・・・極限時の人間の浅ましさに寂しさを覚えた、それもこれも敗戦の惨めさ、哀れさと言うべきであろう。
十五時頃、我々はとある鮮人家屋に立ち寄り暫しの休憩を乞うと、この屋の主人は快諾。「息子が兵隊に出ている」と語り・・・地べたに腰を下ろした我々に俵など敷いてくれた。私は雑嚢から今朝の握り飯をだして食べてみたら、すんなり咽喉を通ったので、とにかく横臥して休憩。約三十分後この家の主に礼を述べ再出発したが、私は一個の握り飯で幾らか元気をとりもどした。
路上に停車中のバスを見つけたので、乗車を交渉したら、反対の羅津方向とのことでガッカリした。疲労困憊の我々は他の停車中の乗り物に総て交渉してみたが,何れも何らかの理由をつけて断られたので、疲れた体に鞭打って先頭に追いつき、小休止となった。そこへ折りよく鮮人の荷馬車十数台が追いついたので、早速交渉・・・すぐ先の橋までと言ったが、真実、歩行が耐えられないので有無も無く、この馬車に飛び乗った。
疲労回復のため横臥・・・何十分〜何時間乗ったか、私は思い出せないが,自身に僅かの活力が蘇る感じだった。突然馬車が止まり、わき道にさしかかったので止む無く下車し、馬車のおやじには、満州タバコ“前門(チェンメン)”をお礼した。
時計を見ると、かれこれ一時間以上乗ったようで、私は驚くほど元気を回復したことは幸いだった。
©2006 Kaneo Kikuchi