山道越え〜鮮人宅で仮眠

それから数時間平坦な道が続き、時折、軍のトラックが砂塵を巻き上げて通り過ぎ、避難者の列も続いていた。やがて前方に小高い山が行く手を遮るように見えた。標高は七〜八百メートルくらいであろうか。
 我々は小休止後“一挙に突破しょう”と話し合って、だらだら坂の山道に挑戦したのであった。“一刻も早く頂上を極めて、楽になりたい”思いで、休まず上りつづけた。
 日はとっぷり暮れ、前後に、避難民の姿は見られなくなっていた。かくて辛苦の末、頂上に達したが、疲労のため全員、どっかと腰を下ろした。とにかく難関を突破したので“ここで野営としよう”と、一決したが、辺りを良く見ると、付近一帯に別の大部隊が野営の準備中で、これも羅津方面からの退避部隊であろう。
「これはいけない。敵襲の巻き添えのおそれがあるので離脱しよう」と決め、またぞろ疲労の身に鞭を打って、一路南方に下山することにした。坂道を下りきったら、幸い部落があったので、とある一軒に、一夜の宿を乞うと“もう満員”と、あっさり断られた。
仕方なく、二〜三百メートル歩き、再度、鮮人家屋があったので宿を交渉してみたら、一室あるが、七名は寝れない、との返事だったが「それでも良い。はみ出したものは軒下で結構」と、この親切な鮮人宅で第二夜を過ごすことができた。時計はもう零時を三十分ばかり過ぎていた。今日一日を省みると、夕食抜きで、十九時間位を歩き続けたこになり、誰の顔にも憔悴が目立っていた。
 もう二十里(八十キロ)位は歩いたと、私は思っていた。“目指す清津はもう近い”
“ソ連軍の追撃圏外に逃れている”と思うと、恐怖は消え、何時の間にか眠った。

八月十二日 鮮人宅で朝食

綿のように疲れていた私は、短時間でもよく睡眠。目覚めたのは六時であった。
圃田曹長は、この家の主人に交渉して「朝飯は心配するな」と伝えた。私は前の小川で洗面。先ず眼帯を外し、目やにだらけの目を丁寧に洗眼。襦袢も脱いで体を拭いた。
 小川の上、下流には三々五々、洗面する避難民も見え、この付近には、羅津方面からの避難者が相当数泊まっていたようであった。
 我々は七名揃って朝食をとることができた。私たちの食器は、南瓜を半分に切って乾燥したもので、この地方の習慣なのか、奥さんは、熱いのをかまわず直接素手で、食器にご飯を盛るので、不潔感に苦笑。味噌汁と漬物の提供もあり、羅津の草島旅館以来、久々の豊富な食事をとることができ、この家の主人と奥さんに、一宿一飯の厚意を謝して出発した。

自動車に便乗

しばらくの間一行の足取りは不調気味だったが「清津までは、後三里」と知り、更に重い足取りとなり、一キロほど歩いたら、路傍に停車中の乗用車があったので、私は早速運転手に乗車の交渉をしてみたが、故障のため応援の車が来たら乗せるとのことで、一時間あまり待機。どうも真偽が懸念されたので、該運転手に故障原因を追求・・・プラグと判明したので、皆でクルマの後部を押したらエンジンが始動。
 私は助手席に陣取り「とにかく至急、清津まで行ってくれ」と依頼。一行は待望のクルマに便乗することができた。

清津立ち入り禁止〜輪城へ

途中で検問「軍人は清津立ち入り禁止。一里先の輪城の交通統制班の指示を受け、食事の用意もある」と,指示されたので、運転士には好意を謝し、輪城に向かう。
 二時間ほど歩いたら街並みが見え、後方から一台の軍用トラックが接近。軍医中尉が「何処から〜何処へ?」と質問.圃田曹長が“転属のため内地へ帰国中、羅津でソ連機の攻撃を受け、乗る船がないためここまで歩いてきた”旨を答えたら、彼は“そうか”と言って、乾パン一袋呉れた。もう十三時過ぎで、中食抜きの我々には恵みの食糧であった。
 警察署前に『交通統制班』の真新しい看板が目につき、圃田曹長が「一時待機所の小学校へ行け」の指示を受けてきたので、小学校へ向かった。
 小学校の講堂は避難民が満員状態で、その一人から「ここから一歩も出さないという軍命ですよ」と教えられたので、先任の圃田曹長が「大本営転属のため帰国中」と係員に説明して輪城駅へ向かうことになった。幸い此処で各自二食分の握り飯を貰った。
既に午後五時を過ぎており、一食だけ食べ、残りは雑嚢に入れた。

輪城駅到着

ここからさほど遠くない輪城駅に着いたところ、夥しい避難民の群れに混じることとなった。待合室は既に満員のため、止む無くホームの長いすに座り、数日来の苦労が一度に吹っ飛んだ気分で、やつれた仲間の顔にも喜色が溢れ、話題にも生気が出てきた。
 次の京城行きは二十三時であるが五時間遅れで明朝三時頃と駅員から知らされた。
ホームでは寒いので、満員の待合室に押し入らざるを得なかった。

 

©2006 Kaneo Kikuchi

表紙 目次 前頁 03-79 次頁