夢うつつに午前三時は過ぎたようだが、人々の動きもなく仮眠を続けた。やがて夜が明け七時になっても駅側から何の知らせもなかった。そこへ突然二輌連結の列車が着いた。羅南行きで誰一人乗車しなかったが、我々は少しでも南下したいので便乗。十数分後羅南駅に着いた。向かい側ホームに南に行く貨物列車を見つけ、便乗を画策中、北方から待望の京城行き列車が到着したので、一斉にそのホームに駆け出した。
この列車は定刻より実に十四時間以上も遅れていた。当然超満員で、空き客車をさがしていたら、小荷物車両が空いたので強引に飛び乗ったが、後から続々と避難民も合流して、あっという間に満員になった。炭水補給に一時間以上もかかり、やっと発車。途中の駅には停車しないで南下を続けた。
蝦のように背を曲げて腰を下ろし、身動きもできないまま眠ることは難事だった。かくして夜明けとともに人々のざわめきを感じ、やがて列車は引っ込み線の交錯する感興の駅に着いた。幸い此処の兵站司令部から朝食弁当が支給された。内容が豊富で、久々に空き腹を満足させてくれた。
一時間以上停車後、八時過ぎやっと発車。我々は今後の帰国ルートを協議し、先ず、元山港から便船を利用することに一決した。
十二時三十分に待望の元山駅のホームに滑り込んだ。やっと車内の混雑から開放され、一団となり改札口を出た。取り敢えず元山駅の兵站部で、夕食までの二食分の弁当を買ってから旅館を物色。街の雰囲気は平穏で、三十分ほどで「湖月旅館」に辿り付いた。
我々は羅津を脱出・・・五日ぶりで苦難な逃避行に決着。案内された二階の一室で旅装を解き・・・長々と青畳に横臥したのであった。
中食後、圃田曹長と東峰軍曹は、船舶司令部へ乗船の連絡に行き。竹井曹長、柿崎 今門軍曹等は散髪に出かけ、本名曹長は旅館に残り、私は悪化した片目の治療のため目薬を買うため街に出たが、二〜三の薬局とも「もう目薬など、久しく入荷しません」とのことで、薬品はもとより、諸物資欠乏の実態を再認識して宿に戻った。
ほどなく圃田曹長等も帰り・・・「船は明日出帆、八時まで埠頭集合」との朗報が伝えられた。そこで我々は旅館の風呂場を借りて、ひどい汚れの被服の洗濯と体を、携行の石鹸で洗って身辺整理を行った。
帰国目前の夕食を楽しむため酒の手配をしたが、旅館はもとより、街の酒店でも統制品のため入手できず、やむを得ずお茶で用を足すことにした。
宿には、六時半起床と依頼していたが、その前から目覚め・・・洗面後、昨日洗った衣服を着用・・・気分も爽快。旅館の朝食も格別で・・・食事後、軍装を整えて埠頭へ出発した・・・すでに大勢の人だかりで、我々が一番遅いよう・・・まだ乗船の気配はなかった。
港内を見渡すと、大少数隻の船が停泊し、何れも沖がかりで、船名は確認できなかった・・・、圃田曹長が「我々は辰春丸に乗ることになったぞ」と急報。
船名が見えないので、どの船か不祥・・・多分、沖合いの大型船であろうと推察された。その船には岸壁から荷物を艀に満載・・・盛んに荷役作業を行っていた。
十二時近くなっても乗船の気配がなく・・・猛暑を避けるため建物の植え込みの蔭で待機中・・・司令部から一人の士官が傍を通りかかったので敬礼しようとしたら・・・それを遮り「おい、戦争は終わったぞ! 日本は連合国に無条件降伏したんだ・・・今天皇の放送があったぞ!」と告げた。私は“おかしい話をする将校だな”と思い、更に詳しく聞きたいと思ったが・・・彼は“お前などに用はない”とばかり、足早に過ぎ去った。・・・私は、呆気ない彼の話に“今の話・・・本当かな・・・そんなことはないと思うがね”と、東峰軍曹へ語りかけたら・・・そこへ何処に行っていたのか竹井曹長が戻り、先刻の将校と同じような話をした。
実は私は、去る七月二十七日、ポツダム宣言が発せられたことを、間島の司令部で聞き知っていて、この件は去る八月八日草島旅館で圃田曹長等へはリークしていたのであった・・・その無条件降伏という最悪事態が、かくも早く来ようとは、とても信じられない思いで・・・旅行中の我々には、正式にこの種命令を示達する上司もなく、ただ情報として受け止めるのが精一杯だった。
建物の木陰で中食を済まし、岸壁の様子を見ても、まだ乗船の気配はなく、早朝からの“待つ身の辛さ”を痛感・・・やっと十六時頃「乗船命令が出たらしい」との情報が伝わってきたので大急ぎで埠頭に向かった。
岸壁には、海軍の某大佐以下、数十柱の英霊を抱いた海軍兵。元山海軍航空隊の将兵数十名。陸軍船舶兵数十名が整列待機中で、一部は逐次、艀で沖合いの大型船に向かっていた。艀の数が少なく、我々の順番は容易に回ってきそうもなく、切歯扼腕の思いだった。
©2006 Kaneo Kikuchi