辰春丸遂に触雷・・・タグボートで無事舞鶴入港

湾内には無数の機雷が投下され、本船はこのため減速しているとのことであった・・・ところが、私が用便直後・・・轟音とともに、船体が激震・・・私は、一尺以上も跳ね上がり・・・危うく鉄骨に頭を強打寸前だった・・・船底からから濛々と蒸気が噴き上がり・・・異臭も発生・・・浸水するような音もした・・・とっさに触雷と直感。

船員が何事か叫びながら、上甲板へ駆け上った・・・私も無意識に後を追った・・・上甲板の自室は、一尺先も見えず・・・同僚の姿はなく・・・手探りで装具を取り出し、甲板に出た・・・子どもたちは泣き叫び、親たちは必死になだめ・・・阿鼻叫喚の巷と化していた。

徐々に白煙がうすらぎ・・・圃田曹長の一団に合流できた・・・やがて白煙は消滅・・・船橋から落ち着いた声で「船は沈みません・・・早やまって海に飛び込んだり、荷物を放ったりしないように・・・そのうち救助艇がきますから、そのままにいてください」と船内放送があり・・・上甲板の人々の顔にサット喜色が蘇った。

時刻は十四時過ぎで・・・周囲を観察すると・・・前甲板の鉄板には大きな凸凹があり・・・衝撃の強烈さを示していた。

やがて甲板には負傷した船員と便乗者数名が搬出され、軍医が直ぐ手当てしていた。船員の負傷者は三名で・・・「まだ一名出てこない、おそらく死亡でしょう」と、近くにいた船員の話し声を耳にした。

本船は機関部がダメージを受けたため現場に投錨。本船の横を・・・随行していた三千トン位の貨物船が、悠々と追い越して入港。岸壁の方では右往左往している数隻の小船が見えていた。

約一時間後タグボートによる曳航作業開始・・・やがて接岸〜即、上陸かと思ったら・・・後甲板に整列・・・便乗者全員、軍医の検疫があった。

我々は、全員の検疫終了を待ち・・・下船命令の下達後、一番先にタラップを下りた。
時刻は十七時過ぎ“ああー本当に祖国の土を踏んでいる”と、胸いっぱいの感激が沸いた“ 私は、前任地の間島(延吉)を出発以来、実に十五日目・・・昭和十六年三月の渡満以来、五ヵ年ぶりの内地帰還であった。

 

付記

私(編著者)の乗船(向日丸 2A型戦標船 六二八二総トン 大同海運(株)も辰春丸と同日舞鶴に帰還しましたが、元山からは別の船団のようです。辰春丸が運悪く触雷した直後に追い越した船は向日丸でした。

実は辰春丸の記録に、羅津から約千人の避難民を便乗して舞鶴に揚陸させたとあり、当時の熾烈な空爆下では、自船の脱出が精一杯であることから、真偽を関係機関等に問い合わせ過程で、当時羅津の中学生だった方から本日記のコピーの提供があり、また著者の谷口氏にも「辰春丸便乗者は何処で乗船?」と尋ねましたら「我々は元山で、最後の艀で辰春丸に乗り込んだので、何処で乗ったのか分からない」とのことでした。

とにかく多数の避難民と陸海軍人が混乗していた事実が把握できた、大変貴重な記録であると思います。

辰春丸の写真

辰春丸の元乗組員でいらっしゃる六反田茂氏のご快諾を得、同氏のホームページにある「船舶写真集(2)」から辰春丸の写真を二枚転載いたします。

辰春丸、神戸港にて(六反田茂氏撮影)

©2006 Kaneo Kikuchi

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