第八十二号海防艦の商船防護顛末秘録
   森武(艦長)著「葉隠れに生きる」より一部紹介

編著者 元向日丸(むかひまる)通信長 菊池金雄

ソ連参戦直後の昭和20年8月10日正午、北鮮城津基地の海防艦82号は「速やかに羅津に進出し、行動可能な船舶を護衛し元山に待避せよ」の指令を第一海防隊司令より受けた。当時同艦は被雷沈没の陸軍輸送船遭難者の捜索救助任務で出動中だったが、手がかりなく清津付近に仮泊していた。

(編著者付記=この陸軍輸送船は羅津丸と推定される。)

同艦は直ちに羅津に向け北上。被弾した二隻の南下中の商船に「後続船ありや」と手旗信号で尋ねると「まだある」との返答なので更に北上中、清津南東で最後の船を望見した。

ところが該船に接近した途端・・・ソ連雷撃機24機が商船「2A型 向日丸(むかひまる)約七千トンと確認」を急襲。向日丸は果敢に搭載火器で応戦・・・敵弾はなかなか当たらず・・・海岸に激突して爆発するのが数回望見された。

 

敵機撃墜後、被弾〜轟沈

間もなく単独勇戦奮闘した向日丸に接近「吾、貴船を護衛して元山に向かう」と信号を交わし護衛態勢に入った、と見る間に敵雷撃機18機が襲ってきた。3機編隊の六群である。敵機は低速、鈍重の双発機で、超低空で本艦に襲ってきたので向日丸を陸岸寄りに待避させ、本艦は25ミリ機銃で応戦、たちまち3機を撃墜したので森艦長は艦橋で「幾らでも来ゃがれ」と気おい立つっていた。ところが不運にも敵魚雷が自艦に命中したため一時気を失った・・・「艦長 艦長」と呼ぶ声で気がつき後部を見たら何も見えず、艦橋から前部だけ横に傾斜のまま辛うじて浮かんでいた・・・まごまごしていると艦とともに水没するので周辺の部下に「飛び込め」と号令をかけた。

舞水端里

向日丸が救出

沈没してから1時間半後、向日丸が我々を救出のため接近してきたので「やれやれ助かったーとホット」したが、向日丸が全速で大きく転舵するので空を見たら、またもや敵機18機が襲いかかっていて、同船は魚雷回避の転舵しながらも乗組員はハッチボード(木製の船倉用蓋)を海面に投下してくれた。この板に腹ばい・・・もう助かったも同然と、周辺を泳いでいる部下と雑談しながら浮いていた。

午後8時10分ころ向日丸が再び接近してきた「今度こそ助かった」と思ったら船は50メートルくらい離れた地点を惰力でどんどん遠ざかって行く、間もなく日没・・・暗くなれば助からぬと緊張した。向日丸は機関を後進・・・行脚が止まったらしい。しかし五百メートルは充分にある・・・空は徐々に暗くなってきた、ここで助からなかったら俺は死ぬなー・・・と思った。 ハッチボードに腹ばいながら向日丸に向かって力泳 力泳、全身の力をふりしぼって泳ぐ・・・ボードを捨てればもっと楽に泳げるだろうが、板を捨てた途端痙攣でも起こしたらそれこそ最後と思って船の舷梯に着くまで板を捨てなかった。

 

向日丸 野口甲板員(当時15歳)の証言

私は伝馬船で一人ひとり救助していたが、その中に長髪者がいたので、てっきり敵兵と思って接近したら「おれは艦長だ・・・負傷した部下から先に救出してくれ」とのことで、非常に感銘をうけたと証言している。

 

やっと舷梯にたどり着く

上がろうとしても、自力ではどうしても上がれない・・・本船の乗組員に引っ張りあげてもらって、やっとタラップに立った・・・どうやら甲板まで上がったものの、もう一歩も足が動かない。甲板のあちこちに助かった部下が居るので、そちらに行こうと思っても全然歩けない・・・私はデッキに尻をついた。

空も次第に暮れなずみ辺りが次第に見えなくなってきた・・・私が助かったことを知り、兵隊が迎えにきたので、彼らに両肩をかかえられながら、皆が集まって暖をとっている後部の缶室の上に行ったら、間もなく向日丸の船長から迎えが来たので私は船橋に赴き、船長に厚く礼を述べた。同船の船長は非常にご老体で(当時60歳)、首に巻いた包帯には血がにじんでいた。(向日丸の谷豊船長は9日ソ連機空爆下、弾片で頸部負傷のため入院中であったが、自船出港のため復船して指揮をとっていた)

この老船長は私に向かって「艦長! 貴方は向日丸の犠牲になってやられたので、艦長の納得がゆくまで生存者の救助をします・・・見ていてください」と船員を督励し、伝馬船とカッターで懸命に救出作業を続行・・・やがて視界内に一人の生存者も見当たらなくなった・・・吾々一同向日丸幹部に感謝の意を表したのであった。

午後8時半、先任将校の調査で、本艦乗組員215名中、生存者は98名で、戦死者は117名と確認された。

 

両艦船幹部で事後のことを協議

私は向日丸船長に「多数の負傷者を一刻も早く最寄りの港で手当てを受けさせたい」と述べたら、船長は「本船は船速も遅いし、明日になれば又もや敵機に襲われるだろう。昼間の航海はとても無理だから、一応城津に寄港して貴艦生存者を揚陸させ、夜間航海で元山に行きたい」と、意見が一致した。

また、臨席した向日丸側士官の証言によれば、森艦長から「何か要望でもあれば申し出てほしい」と提案があったので「本船は敵機3機撃墜したので証明を求めた」ら、すぐ応諾したとのことである。

かくして向日丸は11日未明城津に寄港し、本艦の生存者は下船することができた。

 

合同葬

城津の町では吾々生存将兵の宿舎に「魚津」という大きな料理屋を当ててくれたが、この店は何と前日出港前に散財して「又来るよ」と世辞を言って出た料亭であったとは・・・
けれども何様褌ひとつの敗残将兵に、幸い、おかみも、ご女中連も気がつかなかった。

吾々の遭難はすでに城津町長も聞きつけ、ねぎらいの挨拶にわざわざ出向き、衣服の調達等いろいろ世話をしてもらったものの、ドンゴロスの作業衣、ワラ草履、麦藁帽のいでたちで、隊伍を整えての行進は珍風景ではあった。

戦死者百十七名(機関部は機関長以下全員戦死)の合同葬が、町長の配慮で当料亭において仏式で行われ、九ヶ月間寝食を共にした戦友の霊安らかに眠り給えと祈り、屍を超えて死を無駄にはしないと誓った。

 

司令への報告

葬儀を終えホットする暇もなく、私は主計科下士官一名を帯同、元山の海防隊司令へ戦況報告に出向くため、残りの部下は暦先任将校指揮で、翌14日城津から京城に向かうよう指示したが、町長はじめ、変わり果てた吾々に気ずき、いたく同情をよせてくれた料亭の皆んなに送られて城津駅へ向かった。

私は元山で下車して、第一海防隊司令に面会した。司令は「ごくろうであった」まではよかったが、その次に「君の艦がやられたことは羅南師団司令部からの電報で知っていたよ。助けに行こうと思ったが、行けば俺もやられるから行かなかった」と、付言。

内心・・・これが海兵出の海軍大佐の言うことかと、足げにもしたい激怒をやっと抑えて、暦先任将校の率いる本隊に合流すべく元山駅に急ぎ、京城へ向かった。

 

付記

第82号海防艦とともにソ連雷撃に襲われた向日丸(大同海運)の記録は下記サイトを参照願います。http://www.geocities.jp/kaneojp/03/0365.html

なお、この海戦で、なぜ向日丸が被弾しなかったか疑問であったが、羅津港での積荷を中途で脱出したため喫水が浅く、魚雷が船底を素通りしたと同船乗組員の証言がある。

©2007 Kaneo Kikuchi

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