船団で舞鶴へ

元山では、北鮮の各港から脱出した辰春丸(たつはるまる)・神農丸(しんのうまる)等八隻位の輸送船で船団を編成し、数隻の艦艇の護衛で十四日正午舞鶴に向かった。ところが、まもなく本船はエンジントラブルのため船団からとり残され、風浪によって陸岸方向に流されはじめた。

眼前の絶壁の上では地元民が集まってきて、何やら朝鮮語でわめき、何となく険悪な予感がした。  やっと本船の事故に気づいた護衛艦一隻が、曳航を試みたたが不成功だった。座礁寸前の危険状態が迫り、気のもめる場面であったが、幸い機関部員の熱意でエンジンが辛うじて復旧し、全員ホッとして全速で船団を追尾した。

冒頭の終戦のラジオ放送は、日本海の中頃で受信した。この海域には米潜が跳梁していて、警戒の手を緩める訳にはゆかなかった。

幸い何事もなく航走し、船団は一夜舞鶴湾口の伊根沖に仮泊、十八日昼、舞鶴港外で船団は解散になった。その時陸岸に船形の枯れ木の小山が望見された。双眼鏡で覗いたら新造の軍艦のようで、おそらくは海軍の艦船温存のための偽装であったのだろう。

さて、母国入港を逸る気持は各船とも同じであるが、在来優秀船の辰春丸が真っ先に入ろうとして触雷した。

関連サイト:

隠された新鋭艦酒匂(さかわ)

 

辰馬汽船 辰春丸 (六三四五総トン)触雷と便乗者追跡情報

(平成二十年十一月追加)

山下新日本汽船追悼録から

本船は八月九日ソ連参戦の日、羅津港で荷役中であった。怒涛のように押し寄せるソ連軍に、わが軍はすでに羅津を放棄したが、取り残された本船はソ連空軍の銃爆撃に遭い、二日間不眠不休の戦闘を強いられ、操舵手一名が戦死した。このままでは、本船・乗組員とも死を待つだけというとき、船長は意を決し、単独脱出を試み、死中に活を求めようと逃げ遅れた避難民約千名を便乗させ、夜陰に乗じ単独で羅津港を出帆した。執拗に攻撃を繰り返すソ連機に対し必死の防戦を敢行し、辛うじて舞鶴港に帰港したのは終戦二日後の十七日であった。岸壁を目前にして、乗組員・便乗者とも九死に一生を得た喜びにわいたとき、船底で轟然と機雷が爆発、操機手一名が戦死した。本船はその後、タグボートによってようやく岸壁に着岸し、無事便乗者を陸揚げした。 

追跡情報

この辰春丸の記録は、全くミステリー的であるので、舞鶴市の引揚者資料館と厚生労働省に確認したが、該当記録なしの回答であった。

他方、辰春丸の触雷事故の目撃者(同日舞鶴に入港した、向日丸《むかひまる》の、当時十五歳の甲板員)の証言。「舞鶴入港の際、辰春丸は本船(向日丸)を追い越して間もなく触雷、擱挫した。その直後浮き上がった魚を漁民の小船が回収していたが、辰春丸の甲板上には便乗者らしい人影は見当たらなかった。通常なら、触雷のショックでパニック状になったと思う」

また、羅津でソ連機の空爆下、辛うじて同港を脱出した生存者二〜三人にも尋ねてみたが、あの空爆の間隙をぬって、多数の避難民を便乗させることは、とても信じられないとのことであった。

辰春丸の羅津脱出日時は十日深夜か、十一日未明と推定され、したがって向日丸より遅かったものと思う。また、同船の脱出ルートは羅津〜元山〜舞鶴のようで、向日丸とは別の船団であるが、該船は在来船で速力が速いため両船の舞鶴入港が同日になったものと思う。

その後、ソ連参戦時、羅津の中学生だった福地氏からインターネットで接触があり、羅津埠頭周辺の空爆や市民の避難状況等の情報を入手することができた。

その資料の中に、満州第一方面軍から大本営陸軍部に転属の七名が北鮮経由途次、羅津でソ連機の空爆に遭い、陸路南下の末やっと元山に到着。八月十五日辰春丸に便乗して八月十七日舞鶴に無事上陸したとの谷口軍曹の手記があった。
 関連WEB:秘史その七「谷口軍曹の帰還日記要約

この手記には、陸海軍軍人グループと民間引揚げ者が混乗と明記されていたので、同軍曹に「民間人は何処で乗船したのか」尋ねたが、我々は沖がかりしている辰春丸に、最後のはしけで乗り込んだので何処で乗ったのか不詳とのことであった。

かねて舞鶴市長にも本件の真相解明に協力を求めていたところ、次のような回答があった。

「本市では、戦前・戦後の市史編さんに関わる資料類につきましては、郷土資料館に保管してあります。当資料館所蔵の書類を探しましたが、関連する資料を確認できませんでした」

念のため福地氏に、本件の感想を求めたところ「ソ連機の空爆目標は主に埠頭で、そんな危険な場所に避難民が行くはずが無い」とのことでした。

©2008 Kaneo Kikuchi

表紙 目次 前頁 52 次頁