第一次世界大戦後、経済界の疲弊により産業貿易ともに萎靡し、海運界もその影響により極度の不況に陥っていた。
これが打開のため、革新的創意を有する田中正之輔、崎山好春氏らの山下汽船を退社した同志と、太洋海運社長石田貞二氏及び同社営業組が相寄り、昭和五年末神戸市に大同海運株式会社を設立した。当初社長は置かず石田貞二氏と田中正之輔氏の二人が常務取締役となり、後に専務取締役に選任された。
営業方針は、一切社船を持たず。資本と経営を分離する独特の経営理念をもっていた。その基本船腹は、広海汽船・山本商事・昭和商船・太洋海運(大同発足に伴いオーナーと なる)の社船一八隻(一三六,七五八重量トン)及び扱い船・傭船であった。
経営の基底は一括運航の手数料で。薄利であったが安定した収益を図り、漸次純オペレーターとしての活動を展開することとした。
この路線はベテラン揃いの現業部門の活躍で逐年目覚ましい成績をあげた。しかしこれはオペレーターという、いわば中間的存在での収益を図る経営理念でもあった。
そこで純オペレーターの健全経営と、自船による基盤整備を図るため、昭和七年別会社の高千穂商船を設立した。
昭和九年新造貨物第一船高栄丸(一〇,〇八九重量トン)が竣工。船長にベテラン渡辺礼儀氏を配し、ニューヨーク航路に就航した。
また昭和一一年一二月昭和タンカーを設立して油槽船部門への進出を図った。
昭和一二年二月石田専務病没。
同年六月貨物第二船高瑞丸(一〇,〇〇二重量トン)が竣工、戦列に加わった。
同年七月日華事変勃発。
昭和一三年一一月田中専務が社長に就任。
同年一一月新造タンカー第一船日章丸(一三,八三三重量トン)が竣工した。
逐次会社経営は着実に成長して昭和一〇年代までには各方面の定期・不定期航路に配船。 日本郵船・大阪商船等大手七社に列するに至った。
©2003 Kaneo Kikuchi