悲願の尋ね人対面記

平成十五年五月 菊池金雄

あの戦争の末期、昭和二十年八月六日からA型戦標船向日丸むかひまる〔六八〇〇総トン〕は北鮮の羅津らしんに入港。多数の大型輸送船とともに着岸して軍需物資や穀物の揚搭作業を行っていた。ところが九日未明から突如ソ連軍爆撃機・雷撃機編隊の猛烈な空襲にさらされた混戦状況については拙著「硝煙の海」向日丸むかひまるの章に収録のとおりである。

その緊迫場面で、陸軍の通信連絡将校として乗船していた後輩のナワ少尉が、欠員の次席通信士の代行を自ら申出るなど危機的船務を積極的に支援してくれた好意に対し、当時何らの謝意をしないまま別れ、あらゆるルートで彼の消息を追跡中のところ、母校(現電気通信大学)卒業生名簿から今回やっと那和姓のご本人(那和正夫氏、八十歳)を探し当て、去る五月十四日に五十八年ぶりで再会を果たすことができた。

その間、各方面の方々の追跡調査に対するご協力に感謝を込め、彼との劇的対面の経緯を記してみることとする。

 ○追跡調査の発端

高齢になってから習作にとりかかり、朧気な記憶を掘り起こしてやっと昨年(平成十四年)前記自分史を上梓したが、向日丸むかひまる関係をつづる過程で彼を追跡、往時のお礼の要を痛感したためであった。

 ○漢字のフルネーム不詳

船内で彼を「ナワ少尉」と呼んでいたが、漢字の姓は分からないため、一時「名和」姓の方を追跡したが別人だったので他の漢字姓と推察された。しかし多数の漢字姓があるので追跡を中断していたところ、戦没船「昭豊丸」の谷津元次席通信士のご協力で今回やっとご本人を確認することができた。

 ○感動的再会

毎年五月十五日横須賀市観音崎公園の戦没船員の碑の追悼式が催されるので、その上京の折りお会いしたい旨を那和氏にお願いして了承を得たが、一日だけでは到底積年の話題が時間不足なので、前夜観音崎のホテル一泊提案にも彼が応じてくれたので、十四日正午東京駅の赤煉瓦ポスト前で待ち合わせることとし、私はネームプレートを付けて臨んだ。

彼は自分史にある私の写真を見ていたので、私の顔がすぐ分かったと言ってくれた。今回の出会いを一部にリークしていたので、某所で取材をうけてから観音崎に向かった。那和氏は翌十五日は所用のため朝食後帰宅(西東京市)するので、浦賀駅からタクシーで戦没船員の碑に向かったが、おりから小雨模様に加え碑方向は車両止めのため断念してホテル入りした。

私は、拙著がらみの記憶欠落点などを予め彼に照会していたので、彼から羅津の岸壁や八十二号海防艦轟沈前後のイラスト入りの生々しいメモを渡され、超一級の記録をありがたく拝受。往時の思い出を夕食をはさみ深夜まで語りあうことができた。この概要を「羅津港脱出記」として紹介したいと思う。

 ○同級生故徳永康雄氏の思い出など

たまたま大同海運の大日丸で私と同船した次席通信士徳永氏に話が及んだとき、彼と那和氏はあるとき同窓会で一緒に旅行にも行ったが、こういう関係があったとは思いもよらず、存命であれば往事の模様や近況などをもっと話したものをと悔やむ。そして一九九二年の旅行のスナップ写真を見せてくれた。そこには徳永氏の笑顔が写っていた。

なお私は大同海運を退職してから釜石海上保安部に在勤中、昭和二十八年高和丸が釜石に入港したとき、徳永通信長と田中晴一船長(元向日丸むかひまる一航士)に再会しているが、まさか那和氏と同級生とは全然知らなかった。

また、田中船長から羅津の戦禍のことを聞き取っておけばよかったのにと、残念である。

 ○むすび

この度念願が叶って彼と再会し、当時のお礼ができたこと。並びに、欠落した記憶を呼び戻してくれた彼の冷静な観察眼には少なからず敬服させられた。

彼の当時の立場は陸軍から派遣された通信連絡将校であって、船務には無関係であるにもかかわらず、的確な情勢判断のもと弱体化した通信科を支援してくれた勇気に対し改めて謝意の念大なる思いであった。

これらの戦争の記憶を、同級生の生死も分からぬ戦後、家族にも煙たがられるため今日まで多くを語る事が無かったとは、覚えのある事だ。

©2003 Kaneo Kikuchi

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