海防艦八十二号戦没者慰霊の旅を終えて

菊池金雄

 ○ 昭和二十年八月十日

終戦間際の昭和二十年八月十日輸送船向日丸むかひまる(六七八二総トン)が、北鮮の羅津港でソ連機の猛爆撃から辛うじて逃れ、南鮮向け避航の途中海防艦82号と会合。幸い同艦が本船を護衛、二隻で南方に航走していた。ところが午後五時頃ソ連雷撃機の波状追撃をうけた。

該護衛艦と本船警戒隊が果敢に応戦。海防艦は三機撃墜後、不運にも被雷轟沈するに至った経緯については拙著「硝煙の海」に収録のとおりである。

 ○ 戦友

資料収集過程で同艦の森武艦長が、かつて海上保安庁に在任されたことが判明した。是非お目にかかってお礼を申し上げたい思いで追跡調査中、同艦の生き残り戦友の一人である横見様から突然電話が入り、「あのとき我々を救出してくれて有り難うございました。森艦長は残念なながら九年前に亡くなりました。同艦長が出版した手記があるので、入用なら貸出ます。同艦戦没者の慰霊碑を呉の海軍墓地に建立、年二回有志で追悼している」との思いがけない情報が飛び込んできました。

そこで私は「向日丸むかひまるが生き残ったのは貴艦が特攻となって守ってくれたので、こちらからお礼を申し上げたい」「是非一度、同艦の慰霊碑にお参りしたい」「早速、森艦長の手記を借用したい」とお願いしました。

その後度々連絡をとり、森艦長の自伝「葉隠に生きる」も手にすることができ、往時の生々しい戦闘場面が克明に記録されており、拙著の空白紙幅補完の貴重な資料となりました。

毎年八月十日の戦没者の命日に有志で参拝することが分かり、当日私も参列したいことを申し入れましたところ「大歓迎しますから二泊してほしい」との回答が届きました。

出発日が迫るとともに、就寝時、彼らにどのように対応すべきか思い悩み、何故か涙が止まらなくなりました。ふと、観音崎の追悼式のシーンが浮かび、そうだ「私個人の追悼のことば」を奉納しようと心に決めたら涙が止みました。

 ○ 五十七年ぶりの再会

そこで体調を整え八月九日午後九時広島空港に着陸したところ、同艦の戦友六名が艦の小旗を持って出迎えてくれたのには只々恐縮するばかりでした。

すぐ横見様の大型マイカーで宿舎に向かい、ホテルのロビーには中国新聞の記者が待機していてロビーでの懇談を取材。その後それぞれ個室に移動して汗を流してから一室に集合。五十七年を経ての出会いに話題が尽きなかったが、翌日の慰霊祭もあるので、それぞれ各室に引き揚げました。

 ○ 慰霊

朝七時朝食。八時に同じマイカーで呉の海軍墓地に向かう。私は戦艦大和が艤装中に一回だけ呉に入港の記憶があったが、車窓からは数隻の自衛艦を視認しただけで、海上自衛隊員の姿は見えず、昔日の大軍港の面影はなかった。

慰霊碑のある海軍墓地には、昨夜の記者が先着。カメラを向けたり、色々取材に当たった。全員で慰霊碑周辺を清掃、ミニ軍艦旗半旗掲揚後献花。簡素な追悼の儀がはじまり、冒頭に私が追悼のことばを奉納。戦没者百十七名の英霊に対し五十七年を経てやっとご冥福を祈願することができた。

当時向日丸むかひまるの乗組員は七十名で、私より若年者も相当乗船していたはずであり、翌十一日の中国新聞朝刊に「商船通信員・海軍生存者と再会」の見出しで碑参拝の様子が掲載された。是非元乗組員が名乗り出て、この慰霊碑を参拝してほしいものと念ずる次第である。

 ○ 呉〜広島〜宮島

それから入船山記念館見学後。車窓から呉港を眺め音戸ロッチで音戸の瀬戸を眼下に昼食。


(写真) 呉港(ブログ「アリストテレスな時間」から著者の許可を得て掲載)

その後参加者四名と広島駅で別れ。横見様、桑原様ご夫妻と広島市内ー平和公園記念資料館ー国立広島原爆死没者追悼平和記念館(八月オープン)を見学。原爆死没者慰霊碑参拝後、同じ横見様のマイカーで宮島口に向かい、フエリーで宮島に渡り国民宿舎「みやじま杜の宿」に泊まる。心配した体調も薬効のお蔭で小康を保ったことは幸いだった。

翌日は厳島神社に参拝後ロープウェーで山上から江田島などパノラマを遠望。宮島の鹿は住民並に、自由に町中を散策していたのは印象的だった。

ここに若かりし頃一度見学の記念写真があるが、大型リゾート化した宮島は、浦島太郎的感慨だけであった。ただ船乗り時代瀬戸内海を頻繁に往来していたので、久々に瀬戸の海の幸と潮香に触れ、命の洗濯をしたような思いが去来したことである。

正午近く宮島口に戻り、昼食後広島駅まで送っていただき、北九州市の桑原様ご夫妻とお別れ後、ホームまで横見様の見送りを受け私は午後二時の新幹線に乗車して帰路についた。

 ○ 謝辞

横見様には今回の出会設定や宿舎等の手配等散々ご配慮賜ったこと。また戦友各位の友情に感謝するとともに、積年の償いの一端を果たすことができたのではないかと自問する反面、羅津で緊急入院させ、結果的に戦没させた小川次席通信士に対する自責の念にかられるが、彼には近ぢか天国でお詫びしたいと思う。

(平成十四年八月記)

©2003 Kaneo Kikuchi

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