昭和五十七年九月発行 ジャパンライン緑水会想出集「みおつくし」より転載
元高瑞丸通信長 林 銀次郎
昭和十七年一月二十三日未明、わが陸海軍の部隊は、高瑞丸を含め約三十隻の艦艇に分乗。 ラバウル攻略のため敵前上陸を敢行し、無血で占領した。
高瑞丸は、その後ラバウルを基地として同年 六月頃まで小作戦に協力。その間潜水艦攻撃やら、豪州空軍の爆撃に遭うなど、恐ろしい事ばかりで全く生きた心地がしない毎日だった。
特に、ニューブリテン島東南のスルミ攻略では、豪州空軍から爆撃を受け、七十キロ爆弾が三番船倉に五個命中。一個不発、他の一個は喫水線ぎりぎりのため浸水。右舷はみるみるうちに傾き、もはや沈むかと思った。
この爆撃機の攻撃戦法は、低空から船腹への水平爆撃だった。幸い、勇敢な村垣範通機関長の適切な応急措置で、左ウイングタンクに海水を張り、弾穴が喫水線上になるように船体を傾けた結果、沈没を免れた。
その数時間後。工作船「津軽」が穴を塞ぎ、無事ラバウル基地に帰港することができた。
当時、ラバウルは一日数回の空爆に晒されていたが、高瑞丸は同年六月舞鶴軍港に無事帰還した。
著者付記
私は高瑞丸に昭和十七年 六月から乗船していたが、林通信長はじめ、誰からもこのような生なましい参戦談を耳にしたことはかった。
©2003 Kaneo Kikuchi