高瑞丸の軌跡(2)

昭和五十七年九月発行 ジャパンライン緑水会想出集「みおつくし」より転載

高瑞丸の最後

 元 高瑞丸機関士 吉田秀雄

 ○ 油海の悪夢

最近になってよく夢を見る。真っ赤な夕日が水平線に落ちようとしている。

その夕日に映えて、船体の黒と赤がくっきりと見え、船首を上にして今にも波間に消えようとしている、とても立っておれそうにもない船橋に、黒木船長と坂本機関長が肩を庇ひ合う様に、片手を大きく振りながら、ボートで脱出した我々に別れを惜しむ姿。

そして船体の大きく震える様な音と共に重油の海へ大きな渦と共に・・・・

ここで目が覚めるのがいつものこと。そして感動のあまり泪している自分に驚いて、顔をのぞき込んでいる妻に苦笑したことも再三である。

 ○ 昭和十八年秋

昭和十八年秋といえば、連戦連勝の緒戦からミッドウエイ開戦の惨敗へと、日に日に劣勢に傾きつつある頃だが、当然我々には何も知らされず、案外暢気に航海していた様に記憶している。

勿論敵潜の出没もあり、中国大陸からの敵機の飛来もあったが、当時のアメリカの魚雷は不発が多く、敵機にしても偵察が主目的の様であった。

 

私は学校出たてのピカピカの三等機関士で、当時のディゼル優秀船高瑞丸に乗船ときいただけで胸をワクワクさせたものだ。

今と違い乗り組み員数も多く、機関科にも機関長を含めると士官七名が乗っていた。それだけに、仕事も余暇も楽しく、数々の失敗を重ねながら徐々に、当直も作業もこなすようになった頃、原油の枯渇、タンカーの不足の折柄、高瑞丸が貨物船のまま、何の改造もなしに船艙に、原油を積むためボルネオのミリ港へ。

 ○ シンガポール〜沖縄

今では全く考えられない無謀な事だが、当時は唯々勝利が最優先で、人命が二の次ということが不思議でもなんでもなかった。

荷役を終え、燃料補給のためシンガポールに寄港、そこで内地に不足している衣類、革製品を金のあるだけ買い込んで出港したのは九月も終わり頃。船団を組んだが、他船のスピードが釣り合わず、本船は独航となり、十五ノットの快速で一路内地に向かった。台風時期にもかかわらず、順調に航海は続いた。

勿論夜は厳重な灯火管制をしき、昼間と言えども見張り員が何名も立った。そして何度か「敵潜現らわれる」の警報に驚かされはしたものの、制海権制空権のある沖縄近くまできた時は最早内地に着いた様な気持ちで、乏しい酒を持ち寄って酒盛りをした。その翌日のことである。

舷側には、イルカの大群が船速と競って泳ぎ廻っていた。この様な海で若しも敵にやられたら「イルカに喰われてしもぅぞ」などと同僚と冗談を言えながら、一等機関士との食事交代に入った。

 

その数分後、「ドドーン」という大音響と大振動と共にシャフト・トンネルの入口から、積み荷の原油が大きな柱となって噴出しているのが目に入った。その瞬間、私は意識を失ってしまった。

 ○ 原油の海

どの位の時間が経ったのだろうか、プレートの上を流れる原油に浸って気が付いた。最初に目に映ったのは、何時の間に降りてきたのか、エンジンを停止している機関長の姿であった。速力があれば、それだけ早く沈没するからであろう。

私に向かって「早く逃げろ」と大声を上げた!

その瞳には何とも言えない暖かさがあった。

その時は無我夢中であったが、機関長には、少年航空兵として、南海に消えた私位のご子息がおられたことを、ふと思い出した。

どうしてタラップを駆け登ったのか、ボートに飛び乗ったのは最後の一瞬であり、あとは一面原油の海である。

先刻まで群がっていたイルカは油を嫌ってか姿はなかったが、船長・機関長を呑み込んだ海は夕日に赤く染まっていた。

ボートに乗込んだ私達は、呆然とその海を見詰めていた!

その時奇蹟的にもお二人が浮かび上がってきたのである。

期せずしてあがる歓声!

すでにあたりは暗くなっていた。本当に紙一重といえる幸運である。

そして夜通し波間を漂うこと十時間。原油の飛沫に目が瞬き、真っ黒になりながら、朝方護衛艦に救助された。

虫の息であった船長、機関長も幾分元気になられて、無事佐世保に我々と共に上陸されたのは、遭難の日から三日後であった。

 ○ 思ひ

この様な時代に生き、戦後の復興に無我夢中で働き通した三十有余年、いささかの後悔も、無念もないが、自分の子供、孫達には二度とこのような経験はさせたくない思ひで一杯です。

退職して二年余、今では陸上生活にも慣れ、陸の仕事も比較的順調に進み、河童が陸に上ったという悪評を打破しつつあります。

著者付記
 この遭難時期を逆算すると、私が高瑞丸を下船して僅か三ヵ月後に当たり、実に人ごととは思えない生々しい記録に胸迫るものがあります。
 特に被雷時。原油が機関室に大量噴出した情景は、貨物船改造タンカーの欠陥そのもので、正に人命無視の危険物輸送船であったことの実証でもあろう。
 読者の便を鑑み独断で小見出しを追加した。抜粋・転載の不備はひとえに著者の責任である。

©2003 Kaneo Kikuchi

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