昭和十六年七月高栄丸(六七七四総トン)は海軍に徴用され、機雷敷設艦に改装してトラック島に進出。十月十日第四根拠地隊の南遣部隊に編入、そのまま開戦に臨んだ。開戦直後十日間くらいでトラック環礁の海面防備のため、北水道と南水道以外は全部機雷を敷設し、他の水道を閉鎖した。軍の記録では機雷敷設担当艦は不詳のようであるが、当時トラック派遣の高栄丸が担当したものと思われる。その後、ツラギ攻略作戦に参加のため、十七年四月二十二日トラックからラバウルに進出。吾妻山丸とともに三十日朝ラバウルを出撃、五月二日夜半ツラギ港外着。三日〇七〇〇陸戦隊が敵掃討後港内入泊。夕刻までに水上基地設営作業が完了した。ところが四日朝ツラギ在泊部隊に敵艦載機が突如来襲。高栄丸は若干の被害をうけたが沈没艇乗員を収容して夕刻一旦退避後、五日ツラギに反転。基地物件陸揚げ後、他の沈没艇乗員を救助してラバウルに帰港。その後トラック方面防備隊に復帰したようである。十八年五月以降(推定)は第十八戦隊(佐世保鎮守府機雷部隊)に編入。二十年四〜六月の間は対馬海峡の対潜機雷堰設置任務に就き、B29の攻撃や米軍の磁気機雷等を回避して六月三日大湊警備府護衛部隊に編入。その後高栄丸は八月十日大湊で空襲をうけ小破したが、終戦までよくその任務を全うしたと戦史に記録されている。若し同船が一般徴用輸送船であったなら姉妹船同様の運命ではなかったろうかと、船にも運、不運があったことを痛感、同船の数奇な航跡を記録にとどめたい。
昭和二十五年六月 大同海運は日本郵船、大阪商船及び三井船舶と競争の末、占領軍並びに運輸省の特別許可を得て、南米アルゼンチンへの往復荷物(荷主はコンチネンタル・グレイン社)を獲得した。高栄丸には渡辺礼儀船長以下精鋭クルーが乗り組み、昭和十六年以来九年ぶりに戦後初めて赤道を越え、正に万里の波濤を蹴る活躍は、戦後の日本海運再建史の名誉ある第一ページを飾ったのであるが、当時は同航路の海図が整わず、当局が鋭意補完に奔走してくれた背景もあった。
かくして六月二十四日快晴の正午過ぎ、関係業界はもとより、多数の一般神戸市民の見送りの下、山崎猛運輸大臣の壮行の祝辞が読み上げられ、勇躍高栄丸は南米への壮途に就いたのであった。
「付記」
高榮丸の戦時編制について戸田S.源五郎(HN)氏 より情報提供(高榮丸の船歴)がありましたので追記いたします。 ―――――――
引用Web 高榮丸の船歴 http://www.geocities.jp/tokusetsukansen/J/102/102_003.htm
(2A型貨物船 六七八二総トン)
昭和二十年五月二十日三井造船玉野造船所(岡山)で竣工。直ちに 玉野―若松―釜山―門司―羅津に就航。当時瀬戸内海や日本海沿岸、朝鮮沿岸は米軍 投下機雷のため薄氷の海で、先行船の触雷現場を再三目撃した。
八月六日羅津に入港して内地向けの穀物搭載中八日深夜突如、ソ連機の爆撃に遭い、西豊船長(六十歳)が頚部負傷にひるまず、応急手当てだけで指揮を 続行し、十日早朝必死で羅津脱出。南鮮向け避航〜途中から第八十二号海防艦が護衛〜ソ連雷撃機の追撃で該海防艦轟沈〜海兵九十三名救助(戦死百十七名)〜 城津で海兵揚陸〜元山で船団編成〜舞鶴に八月十七日奇跡的に無事帰還。
船員の戦没者は一名(当時、小川次席通信士が病気のためソ連機空爆下の自船保全が急迫事態となったので彼を羅津満鉄病院に緊急避難入院させたが、駄目かと思った本船が生き残り、事後彼が八月十日現地で病死したことが確認され、安全策が裏目になったことは遺憾至極である)
また、海軍警戒隊員も若干名の戦傷者あった。舞鶴入港直前、新造巡洋艦が偽装して隠れていたことと、先航の辰春丸触雷現場を目撃した。
参考Web 日号作戦下の悲惨な商船隊秘話
http://www.ric.hi-ho.ne.jp/senbotusen/siryo-deta/mukahimaru.htm
向日丸 MUKAHI MARU 56627/JYXV→JIBE 6,886G/T 2,000SHP 13kt 起工 1945.2.22(昭20) 進水 1945.4.10(昭20) 竣工 1945.5.20(昭20) 三井造船株式会社玉野造船所(岡山)建造 Sno.400 大同海運株式会社(神戸) 向日丸 Mukahi Maru SCAJAP No.M053
→1950.4(昭25)川崎重工業神戸造船所(神戸)でA.B.船級取得工事、同年9月完工→1955.11.20(昭30)松岡汽船(神戸)に売却、松福丸 Shofuku Maru と改名→1964.5.25(昭39)三原で解体
昭和20年8月9日「羅津港内夜間対空戦闘」
「向日丸」は来襲したソ連軍雷爆撃機と対空戦闘を行う。
戦果:撃墜・1機
昭和20年8月10日 「朝鮮沿岸対空戦闘」
「向日丸」は羅津港脱出最後の一船として必死に南下中、追撃のソ連雷撃機と対空戦闘中、羅津よりの脱出輸送船の護衛のため北上してきた第八二号海防艦と合流直後、ソ連雷撃機第二波編隊が来襲。
舞水端里南西約7浬地点で、第八二号海防艦はソ連軍雷撃機18機と交戦、うち3機を撃墜したが魚雷1本が命中し轟沈。
「向日丸」はこれらの雷撃機と交戦しつつ、海防艦乗員の救助にあたる。
戦果:敵雷撃機2機撃墜。
注:「向日丸」と第八二号海防艦の勇戦力闘に関しては下記サイト参照。http://www.geocities.jp/kaneojp/03/0365.html
大同海運OB 渡邉昌彦
向日丸」と言う船はヤンチャナいたずら坊主みたいです。私の耳にした話だけでも羅津やコロンビア川、での座礁、ハワイ沖でのダンブル浸水(船倉)、土佐沖でのスクリュー落欠等などまさに向こう傷の絶えぬ船です。
しかし戦時中、機雷も、爆撃も避けて見事帰国、最後まで貨物船としての職務を成し遂げ、松福丸として第二の、まさに船出を飾った事を考えると、とても幸運と言うか強運の持ち主です。 この船に係わった乗り組みは皆この強運の恩恵に授かったことでしょう。 私の乗船履歴には残念ながら「向日丸」はありませんでした。
©2009 Kaneo Kikuchi