そんな思いを込めながらこの手記をつづっていたところ、「潮騒」((財)日本殉職船員顕彰会機関紙)に載った私の投稿文を見た方から、森武艦長と同名の方が、かつて海上保安庁に在勤していたとの情報が入った。早速同庁に照会したところ、経歴から同一人物であることが確認された。
同氏は昭和四十年に退職して、大阪造船に再就職し、当時大阪市港区に居住とのことで、念のため大阪造船に動静を照会してみたが、古いことで不詳とのことであった。
他方、海上保安庁OB会ルートでも探したが、名簿からは該当者が無かった。一応、大阪市の元住居先に手紙を出したが、「あて所に尋ねあたりません」で返戻された。
さらに海防艦顕彰会に照会してみたところ、最近、広島市在住の戦友の方から同艦長の消息についてご連絡をいただいた。しかし残念ながら平成四年にご逝去されたとのことで、生前にお会いできなかったことは大変残念に思う。
ご親切に同戦友から、森艦長の自伝「葉隠れに生きる」を供覧させていただき、過去半世紀余の死闘場面を改めて彷彿させられた。
それにしても、同氏が私と同じ役所に勤務されていたことは不思議なご縁であり、また戦時中は高等商船学校出の海軍予備士官として、仲間である輸送船を敢然と防護した闘志を改めて讃え、衷心よりご冥福を念ずるしだいです。なお、情報提供いただいた海防艦顕彰会、第82号海防艦の戦友及び海上保安庁等の関係の方々に厚く感謝申し上げます。
明治43年 佐賀県生まれ
昭和9年 神戸高等商船学校航海科卒業
昭和10年 川崎汽船入社
昭和15年 海軍応召 海軍予備少佐
昭和25年 海上保安庁入庁
管区警備救難部長 函館 鹿児島 門司各保安部長
巡視船宗谷船長など歴任
昭和40年 大阪造船ドックマスター
昭和41年 太平洋汽船船長
昭和45年 茨城県日立港水先案内人
平成4年 死去
(付記)
自艦が正に特攻となって
呉市にある海軍基地の一角に、第82号艦戦没者の慰霊碑が立てられているようであるので、是非一度追悼式に参列して、武運つたなく戦死された方々のご冥福を祈願するとともに、戦友各位にお礼したいと思う。
(追記)
本年平成十四年八月、念願かない、上記第82号艦戦没者の追悼式に参列することができた。存命の戦友各位にお会いでき、往時のお礼を申し上げることができた。この旅行のために大変なご配慮をいただいた関係者の方々に、深くお礼を申しあげます。
中国新聞記事コピー 平成14年8月8日 平成14年8月11日
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