八十一号作戦(第一次ニユーギニア・ラエ輸送作戦)に参加。
昭和十八年二月二十八日、ラバウルで兵員一三一六名、火砲十一、車両十二、軍需品二千立法米、大発四を搭載し二二三〇出港、ラエ向け九ノット八隻で船団航行中、二日〇七五五頃、グロセスター岬北西海上においてB17、七機と交戦。内三機が本船に狙いを定め、〇八〇五高度二千米より爆撃を開始した。
本船は応戦しながら、被弾回避につとめたが〇八一六頃、一〜二番艙に被弾と同時に火災発生、次いで船速が低下、船列より脱落して〇九二六沈没した。
直ちに護衛の朝雲と雪風が救助に当たり、八一九名と山砲一門を収容してラエに揚陸した。部隊四六四名、船砲隊二十一名、船員一名戦死。
沈没位置 S〇五‐〇二 E一四八‐一四(グロセスター岬北北西五十五粁付近)
参考 この輸送作戦は、巷間「ダンピールの悲劇」と言われ、ホームページ「硝煙の海」第二部、秘録欄に大同OB川崎氏が「東部ニューギニア ダンピール海戦秘話」を投稿しているので、ご一読ください。
昭和十七年三月二十八日ラングーン発、昭南向け航行中、四月一日 N〇六‐〇八 E九九‐一四(ぺナン北西一四〇粁付近)において被雷沈没。
昭和十九年一月九日〇七三〇パラオ発、ラバウル向け航行中の十六日 S〇二‐二三 E一四九‐四六(ニューハノーバー島西方二十粁付近)において空爆沈没。当時野戦病院関係者二四四名が乗船中の内三十名、船員四名戦死。
昭和一九年一月十八日基隆発、門司向け航行中、二十九日〇二〇〇頃N二七‐一五 E一二八‐三九(徳之島天城西方十七粁付近)において左舷二番艙及び機関室に各一発被雷。両破孔より激しい浸水で間もなく沈没。船員総数四十五名中、四十名戦死。
(昭和十八年一月九日、貨物船から応急タンカーに二十八日間で改造)
ボルネオ島ミリーにおいて重油八〇一〇トンと便乗者一九〇名を搭載し、昭和十九年十 一月一日一二〇〇同港発、聖雀(さんじゃっく)経由門司向け航行中、一七日〇五五〇頃 N一六‐四五 E一一〇‐一五(仏印バタンガン岬北東二三〇粁付近)おいて被雷、沈没。
昭和一七年九月一日ジャワ島スラバヤ発、昭南向け航行中、同月四日S〇三‐〇五E一〇六‐一九(バンカ島バク岬西方二十粁付近)において触雷、沈没。船員六名戦死。
昭和十八年五月五日 二二四〇頃 N三八‐三七 E一二二‐三八(大連港東南東八十五粁付近)において被雷、沈没。便乗者十名戦死。
昭和十八年十一月二十二日〇八一二頃N三三‐四一 E一二八‐三五(五島列島浮久島 北西六十五粁付近)において、右舷機関室付近に被雷。幸い不発だったが、激突によって生じた破孔よりの浸水が後部船艙に流れ込み、防水不可能のまま一二三三頃沈没した。
昭和二十年七月二十五日N三五‐〇六 E一二九‐四〇(朝鮮釜山東方五十八粁付近) において空爆をうけ被弾沈没。船員三十六名戦死。
昭和二十年六月十日 空船で伏木出港。石炭搭載のため小樽に単独で八ノット航行中、同日〇二四〇頃 N四三‐二六 E一四〇‐三六(北海道積丹岬北東十七粁付近)において、濃霧の海上で雷撃をうけた。右舷一四〇度三〇〇米に雷跡を発見し、直ちに転舵したが三本中二本が機関室に命中。大爆発して急速度で沈没した。警戒隊員八名、船員三十八名、外八名戦死。
昭和十九年四月三十日、海南島楡林において鉄鉱石一一三五〇トンを搭載し、同日一七 三五出港。八幡向け航行中、五月四日〇〇〇八頃 N二〇‐五一 E一一八‐〇三 (汕頭南南東三二〇粁付近)において右舷船橋下部に二発、三番艙に一発、計三発被雷。爆発の衝撃で船体が中央部から折れ、約三十秒後に沈没。当夜は半晴れなるも雷光があり、海上はやや波が高かった。船砲隊員十六名、警戒隊員十五名、船員五十六名戦死。
昭和十九年二月十三日一六〇〇昭南発、門司向け航行中、十九日N一五‐四六 E一一五‐五七(南シナ海西沙群島東南東三〇〇粁付近)において被雷沈没。船員五十一名戦死。
昭和十九年二月二十一日一六四七バリクパパン発、パラオ向け航行中、二十四日〇二二 〇頃N〇五‐五〇 E一二六‐〇〇(ミンダナオ島サンアグステン岬南南西五十五粁付近近)において被雷沈没。船員十七名戦死。
昭和二十年六月十三日若松市岩屋沖において触雷、沈没。
昭和十九年十二月三十一日 〇八二〇門司発、昭南向け航行中の同二十年一月七日一一二七頃 N二五‐四二 E一二一‐一四(台湾富貴角西北西四十三粁付近)において二番油糟と貨物艙に被雷。浸水を防止しながら、同日二二〇〇基隆に回航、十八番岸壁に接舷して修理中のところ、二十一日〇九一〇より空襲をうけ撃退につとめたが、一四四八大編隊の空爆で中央甲板に直撃弾二発を被り大火災発生。やがて火炎は船全体を包み、船内で誘爆が相次ぎ、一五三五遂に擱座した。
便乗者六九五名中十二名、船員五名戦死。
ラバウル港在泊中の昭和十八年十月十二日O九四頃、米軍大型機五〜六機の空襲をうけ、至近弾により二、三番艙の外板が破壊。搭載中のガソリンに引火して大火災となり、さらに艙内の弾薬にも引火、爆発。一三〇〇頃には一番艙内の爆弾、機雷、魚雷に誘発したため大音響とともに轟沈した。その直前、辻川機関長は機関室内に在室者の有無確認中に、救命艇が離船したため、危機一髪で海面に飛び込み難を逃れた。
参考 ホームページ『硝煙の海』第二部の辻川機関長の手記をご参照ください。
(昭和十八年一月九日、貨物船から十九日間で応急タンカーに改造)
昭和十八年十月三日昭南発、下津向け航行中の十四日一六四四頃 N二七‐三五 E一二七‐三〇(那覇北北西一五〇粁付近)において、右舷一三〇度一千米より雷撃をうけたが、三本を回避。更に同方向より二本が突入し、内一本が舵に命中。次いで右百度七〇〇米より、またも一本が接近し、六番艙に命中。激しい浸水のため総員退船下命、救命艇降下。黒木船長と坂本機関長は責任感から在船。船橋から救命艇に手を振って別れを告げた直後に船体沈没。ところが奇跡的に二人とも海中から浮上したので救命艇に収容した。そして原油の海に漂うこと十時間余り、明け方やっと海防艦に救出され、三日後に佐世保に上陸した。ところが秘密保持上から小人数毎に分宿させられた、とのことである。
当時、千名近い陸軍兵が便乗し、その内の二十一名と、雇人四名が戦死。重油約一万トンを積載していた。(注=戦時船舶史には船員三名戦死とあるが、社史には戦死者の記録がない。)
参考 ホームページ『硝煙の海』第二部の吉田機関士の手記及び、林元通信長の緒戦時の高瑞丸の軌跡を、ご参照ください。
昭和十七年七月十二日 西貢において工員二十名と軍需品、郵便物を搭載し、門司に向け出港。十三日〇七二〇頃 N一三‐〇四 E一〇九‐三九(仏印バレラ岬北東二十八粁付近)において被雷。船尾を上に逆立ち状となり、〇七五五全没した。船員一名戦死。
昭和十八年十一月二日 ラバウル沖において空爆をうけ沈没。
昭和十九年二月二十一日一五〇〇ポナペ島発、二十三日一一〇〇クサイエ島入港。
便乗者四十七名、第一〇七連隊の兵器、弾薬、その他軍需品を揚陸。同日一四〇〇頃より一時間、敵機の偵察があり、二十四日〇六四五より果然、爆撃機六機来襲、三回にわたる銃爆撃により直撃弾二発、焼夷弾数発を被り、機関室と二番艙に生じた大破孔から浸水が起こり、また、船橋後方では大火災が発生したため、遂に総員退船が下命された。
船体は〇七一五に至り沈没。警戒隊員六名、船員五名戦死。
残荷は鋼材二百トン、セメント三十トンであった
本船は当初二年間、昭南とパレンバン間の原油輸送に専従のはずであったが、マニラの暁部隊の指令で、マニラーミリ間の原油輸送に変更になった。
ミリからマニラ向け第一回目の原油輸送を共同丸(約千トン)と二隻船団に陸軍護衛船一隻に守られスルー海コースでパラワン島沖に達したら、該護衛船はドック入りのため護衛を打ち切って南下してしまった。
昭和十九年十月二十五日朝食中、パラワン島北部海域で米哨戒機一機から空爆をうけ、至近弾一発でエンジン停止。次の至近弾一発で簡単に船体が亀裂、沈下開始、総員退船下命。素早く救命艇降下、全員泳いで乗艇したら、同機から無情にも機銃で威嚇された。
幸い共同丸は難を逃れたので、敵機離脱後救助し、近くのコロン陸軍基地に揚陸してくれた。警戒隊の大谷兵長と、内田甲板員の二名戦死。
(注=社史の戦死船員数が五名であるが、マニラで船員四名を軍に抽出したので、この船員が戦死したため、加算されているものと推定される。)
(その後、共同丸は昭和二十年一月六日一三三〇頃、ルソン島リンガエン湾において空爆をうけ沈没。船員十名戦死したとのことである。)
参考 ホームページ『硝煙の海』第一部をご参照ください。
昭和十九年六月三日一〇〇〇昭南発、門司向け船団で航行中、二十四日二三五四頃、長崎を目前にした N三二‐二四 E一二九‐三八(野母崎南西二十粁付近)において被雷、沈没。船砲隊員二名、船員三十七名戦死。
林銀次郎元通信長の手記
私は昭和十八年十一月、日本重工業富山造船所で建造の戦標D型船、建日丸(1938総トン)に乗船。尾道の向島ドックで機関砲装備の噂から、また前線派遣が判明した。
同船は、陸軍御用船として広島宇品の停泊司令部付となりパラオに行き、その後前線に派遣されることになっていた。
パラオで三日停泊し、さて出港となるもエンジンが作動せず、陸軍の修理班がきて、やっと直った時には、すでに代船が前線に向かった。このため軍命により、郵便物を積んで宇品に帰港し、私は社命により交代。後任は結婚早々の若い通信長であった。
その後の建日丸の行動について生存者の証言によると、同船は比島で鉱石を満載して内地向け帰航中の昭和十九年六月二十四日、長崎県野母埼灯台が見えたので安心.久方ぶりに寝巻きを着て寝た途端の十一時頃に潜水艦の攻撃をうけ、一瞬の間に沈没したという。
生存者の一人は、救命ブイを着けたまま沈む船に巻き込まれ、数回海水を飲みながらも浮上し、幸い救出されたとのことである。
(会社の記録=戦死三十七名 生存者十六名)
建日丸通信科名簿
局 長 三保木末男(享年26歳) 大正6年生
通信士 山本美英 (同27歳) 大正5年生
両名とも昭和19年6月24日没 (出所;日本殉職船員顕彰会)
駒宮真七郎著 戦時輸送船団史参照
建日丸は昭和十九年六月三日一〇〇〇シンガポール発の船団(輸送船十九隻、護衛艦五隻)で門司に向かったが、六月六日二二二五頃、サンジャック南東三〇〇キで、第十五号海防艦が雷撃をうけ沈没した。
十一日一六〇〇マニラに入港し、第八号海防艦はマニラで分離。十四日一三三〇高雄に向かい、十八日〇九一五高雄入港。二十日一〇〇〇出港し、基隆に寄港。二十一日出港し、門司に向かった。このときの船団は十一隻で、八隻は寄港先で分離した。
船団はいよいよ最後のコースを門司に向け航行し、やがて二十四日二三五四、長崎を目前にした野母崎南西二十キロに達した時、予期せざる雷撃を受け、那須山丸(三井船舶、四三九九総トン)、玉鉾丸(会陽汽船、六七八〇総トン)、台南丸(大阪商船、三一七五総トン)、建日丸(大同海運、一九三九総トン)が、相次いで被雷沈没した。
船団が攻撃された位地は、北緯三二−二四 東経一二九−三八の天草灘で、それまで防御海面といわれた安全地帯で四隻が撃沈されたことは、あまりにも衝撃的であった。
ちなみに、四隻を攻撃した潜水艦はタングで、米潜水艦中の猛者である。
昭和十九年五月就航。釜山から関東軍の大部隊を比島リンガエン湾サンフェルナンドに輸送後、マニラ回航。九月二十一日米軍機約二〇〇機の空爆に遭い、三番艙に一発被弾するも漏水なく、ばいかる丸と軍命によりミンドロ海峡付近のコロンに一時避難。ところが、此処にも米機が来襲し、船長と一等航海士が戦死した。
約十日後、再度軍命によりマニラに帰港したが、十月二十二日、またまた大空襲をうけ、被弾、沈没。幸い危機一髪で全員救出された。
参考 ホームページ『硝煙の海』第一部、林通信長の手記をご参照ください。
昭和二十年七月二十五日 N三五‐〇六 E一二九‐四〇(釜山東方五十八粁付近)において空爆をうけ被弾、沈没。船員三十六名戦死。
昭和二十年六月二十四日 木浦沖で空爆、沈没。
昭和二十年七月十三日 山口県吉母沖において触雷、沈没。
昭和二十年八月二日遭難場所が室津と社史にあるたけだが、「日本油槽船列伝」には、戦後に残存。昭和二十三年三月貨物船に改造となっている。
三菱重工業(若松)で竣工 2EH型戦時標準貨物船(光隆丸と同型) 昭和二十年七月二八日日立造船因島工場で空襲を受け、大破。戦死12人(船員)。因島での死亡日、7月28日11人、同29日1人。昭和24年、光隆丸と大玄丸を浮上させ、光隆丸の後部と大玄丸の前部を接合させ、大玄丸として再生。
©2009 Kaneo Kikuchi